はじめに。 躁鬱病エンジニアの人生観ヽ(•̀ω•́ )ゝ✧

そこに見える景色が一つだけと思わないほうがいい。
心の有り様次第でそれはいくらでも変わるのだ

もくじ

第1章 双極性障害に気づくまでの32年間

第2章 闘病生活最後の希望、瞑想

第3章 社会への帰還

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第4章 瞑想で書き換える人生観

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はじめに。 躁鬱病エンジニアの人生観ヽ(•̀ω•́ )ゝ✧

自分の精神状態について意識し始めたのは
僕は確か、中学生の頃だ。

今は気分がいいな、とか
今日は冴えてないなぁ、
なんて。。。

誰しも大なり小なりその日その日で調子の良し悪しはあるだろう。
だが僕は、調子の波が、変動が、普通の人より少し大きい。
シャキッとする時もあれば人一倍だらしない時もあったり
頑張ったり頑張らなかったり、テンション高かったり低かったり。

子供ながらに僕が特に気に留めていた事は、

どうすれば僕は常に頑張れるのか?

ということだ。

少なくとも僕は、子供の頃から
がむしゃらに頑張れば良いというわけではないことを知っていた。
頑張れる時は頑張れるけど、
そうでない時は徒労に終わることを知っていたからだ。

では、どうすれば僕はコンスタントに頑張れるのか!?
実に32年間も分からなかった。
いつ、どんなタイミングで、自分にスイッチが入るのか。。。
それはそもそもコントロールできることなのか。。。
自分を、自力で、コントロールできるのか!?
これは人生最大のテーマだったと言ってもいい。

かつて僕には自制心がなかった。
継続的な努力なんて、到底出来なかった。
僕は、いつでも頑張れる人、自制できる人が、
心底羨ましかった。

今思えば、子供の頃の僕のムラっ気は個性の範疇。
その頃は病的ではなかった。

今は違う。状況が変わった。
僕はここ数年で病んでしまった。
超えてはいけない一線を、ついに超えたのだ。

だらしない自分は個性や努力の欠如というレベルではなく
双極性障害(躁鬱病)っていう病気のレベルであるという、
受け入れ難い事実。しかもこれ、実は不治の病。
努力で解決出来る人は、幸いにも健常者である。
いやむしろ、健常者の定義とは
努力でどうにかなるレベルの人のことかもしれない。

特に僕みたいな精神障害者の場合、頑張るべきは
目の前のことではなく、気分をコントロールすることだ
ということを、ここ最近知った。
いや、子供の頃からなんとなく知ってたんだけど、
2015年の闘病生活を通じて、改めて思い知らされた。

そして僕は闘病を通じて、やり方さえ間違わなければ
頑張らずに頑張れるってことを体得した。
3カ月間会社を休み、色んなことを試し、
ついに心を手なづける手段を見つけたのだ。

ここでいう手段とは、瞑想である。

心をコントロールできるようになり、改めて確信したが

  • 結局のところは何事も気分次第。
  • 幸せかどうかは心が決める。状況は関係ない。
  • 正しい気分なら何もかもあらゆる事が
    めんどくさくはないし、辛くもない。

これが今のところの結論だ。
であれば、心を自力でコントロールできれば、人生はより豊かになるだろう。
病んだ僕でも苦労せず頑張れるのだから、健常者の皆さんが正しく努力すれば、
人生の苦労はどれほど少なくなることだろうか。

頑張らずに頑張るって変な表な表現だが
瞑想を体得した今の僕は努力と苦労は全くの別物だと考えている。
努力と苦労は似て非なるものだ。苦労すれば結果に繋がる訳ではない。
苦労しているから俺、頑張ってる!なんて、大きな間違いだ。
何事も、正しく取り組めば、辛くはない(苦労ではない)のだ。

ここでいう何事もってのは、ズバリすべてのことだ。
正しくとは、心の持ちよう、精神のあり方が正しいということ。

心を正せば何もかも上手くいく。

心は努力すれば、個人差はあれどコントロールできる。

僕みたいな精神障害者ですらコントロールできたのだから、
皆さん?のような健常者であればなおさらだ。

心は、手なづける事ができる。

そして心を正す手段の一つは瞑想である。

これが僕の最初の主張だ。

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【自己紹介&前書き】メンヘラエンジニアの生立ちと就職後の苦労話

話変わって、別の側面での僕の個性の話。
振り返ってみるだに僕は生まれついての「理系」だ。昨今「理系男子」なんて言葉が市民権を得ているような今日この頃だが、僕は良くも悪くも昔っから典型的な理系男子、そのものだった。
 ただ、病的ではないにしろ「普通」でも「健常者」でもなかった。わずかばかりのADHD的な気配があり、軽度の自閉症、いわるゆアスペルガー症候群のような
「個性」をもった子供だったと思う。

好きなことにはとことん集中!興味無いことは一切無視!
コミュ力はあったりなかったり。

そんなアスペっぽい僕が子供の頃に強い興味を示したのが科学だ。

小学校や町の図書館にある理系が読みそうな本を片っ端から読むのが好きだった。それとなにより機械が好きだった。車、バイク、飛行機、等の乗り物を勉強することに執着する子供だった。執着。

好きとかじゃなく、執着。執着していたと思う。

 僕は瞑想による執着からの解放を、この本では言及したい。

執着は方向性さえ正しければ悪いこととは思わない。
今でも子供の頃に理系的なことに執着してて、よかったと思っている。

だがこれは実に稀なケースだ。

 ギャンブルだったり酒だったりタバコだったり異性だったり、好きなことは度を越せばそれらは依存・すがりつきとなり、ひいては気づかない間に人生の負担となってしまうことも世の中には多い。

 執着はなければ無い程人生は楽であり、執着や執着を無くす事で穏やかな人生を過ごせる。そして瞑想が、その手段となりうる。

という事を、この本で皆様に伝えたい。

 瞑想には悟りという概念がある。

 僕の場合、悟りとの出会いは突然だった。
 衝撃的で、穏やかで、幸せな瞬間。
その日、僕の人生観は書き換わった。
その境地までたどり着けば、一切の執着から解放されるのだ。

 あらゆる宗教で口すっぱく説く、煩悩・強欲からの解放である。

たとえ悟りにまで辿れつけなくとも、瞑想をやればやるだけ不思議と執着は消えていくものだ。その効果は精神安定剤ほどの即効性はないものの、穏やか、かつ確実に、メンタルヘルスを改善してゆく。

 今は子供の頃に執着していたサイエンスの知識や考え方を武器としてサラリーマンエンジニアで飯を食いつないでいる。かつての執着の対象が比較的生産的なことだったのは
今思えば不幸中の幸い、、、、いや、むしろ今の僕の人生を支えている大きな柱となっている。

 一方で、僕の興味無いことに対するパフォーマンスの酷さは特筆すべきものだ。
幼少の頃は理科以外の教科のスコアが散々な結果に見舞われる日々がしばらく続く。

アスペルガー症候群っぽさ全開の、少し変な子供だった。やりたい事は出来るけど、やらなきゃいけない事をその都度タイムリーにやる人間ではなかった。
 まぁ、当時は生きてて深刻に困ったことはないので、病的ではなかった。真剣に困り始めたのは、やはり社会に出てからだ。それなりの大人として、満遍なく、そつなくこなすことを社会では要求される。だが、僕は何でもできる訳ではない。

 僕は機械工学部卒の研究開発職だから研究開発っぽいことがとても好きな一方で、事務仕事なんて真っ平御免だと思っていた。考え事はできるけど、単純作業はとても苦手だ。
もちろん嫌いなことでパフォーマンスなんて一切発揮できない。だからそれなりにやりたい仕事が降ってくるよう、努力していた。
 とはいえ、やりたいことだけやれる仕事なんて、そうそうあるものではない。
サラリーマンとしてクリエイティブな工程から泥臭い作業、交渉事までいろんな仕事が降ってくる。何事も満遍なく、そつなくこなすことを苦手とする僕は、やはり苦労した。
結果、メンタル的にどん底まで1度落ちた。

辛かったなぁ、と思い返したいところだが
その時期の記憶はほとんどない。

 ストレスによる健忘症だ。

記憶が飛ぶくらいに辛かったんだからもし覚えていたらそれだけで本1冊かけるかもしれない。32年間の人生で2年間記憶が抜け落ちているというのはなんだか寂しいものである。

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【躁鬱とは】テンションの上がり下がりは度を越すと病気だ。

 僕が自己の精神状態、気分の上がり下がりを意識し始めたのは中学2年生くらいだ。すでにこの頃、僕は自分の集中力に大きな波があることについて自覚的だった。ランニングが好きだったのだが、ジョギングした後はだいたい冴えていることに気づいていたので、テスト勉強する時はいつも自分を研ぎ澄ます儀式としてジョギングや筋トレ、そしてセルフマインドコントロールに打ち込んでいた。

 そう、いわゆる「ルーティーン」を始めたのが中学生の頃だった。

 ここでいうルーティーンとは、集中する状態に入るための儀式のことだ。

僕の場合、それは当時、ジョギングであり筋トレであり、ここ最近は呼吸と瞑想になった。本書ではライフハックとしての瞑想、そしてそのコツとして呼吸の大切さを皆様にお伝えしたい。

 短期的な精神状態の波(浮き沈み)について僕は割と早い段階で気がついていたが、数年周期の波、双極性障害者ならではのうつ状態、そう状態のゆっくりとした人格の移り変わりについて、自覚したのはここ最近の話だ。

やがてその波は次第に荒々しくなり、僕の人生を翻弄していく。
ターニングポイントは2013年の6月のある日。

朝起きたら、意識が朦朧として、体に力が入らなくなった。

双極性障害とそれに起因する自律神経失調症がついに病的なところまで進んでしまったのだ。

双極性障害の病相の一つ、鬱エピソードに転じた瞬間である。

それから2年間、ほとんど記憶はない。
無我夢中で生きてきたけど、失ったものは記憶だけに留まらず、
お金、信用、友達、色んなものを失ったようなきがする。

 気がする、、、、要するに記憶があやふやだから
なんとも断言できないという訳なのだが、

2年間の人生の空白期間は本当に辛かった。

 反射神経や認知能力は著しく低下し、僕は大好きだった車を降りた。このままではいつか人を轢き殺してしまうって思ったからだ。

体に力が入らないから、それまでルーティーンとして使ってたジョギングや筋トレは一切できなくなった。

仕事もグダグダでよくもまぁあの期間にクビにならなかったものだ。あの期間にちゃんと給料を支給してくれた会社には本当に感謝している。

私生活は荒れ果て、人とのコミュニケーションも危うくなり手が震えて字を書くことはできなくなった。何より言葉が自然に出てこなくなったのが辛かった。日常会話で使う常用の言葉すら思い出せなくなったのだ。文字どおり廃人だ。

 そんな僕にも立ち直る機会はあった。

 良くも悪くも僕は躁鬱病なので、きっかけさえあれば躁に転じる

一般的に双極性障害の気分の上がり下がりの周期は数年だと言われている。これまでの一生を振り返ってみるだに、僕もだいたいそんな感じだ。躁であれば、行動力だけはあるので、自分を変えたり環境を変えたりとした様々な取り組みを行うことは、可能だ。

だが躁は躁で実はすっごく生きづらい。

躁の人格の時、僕に社会性はない。

慎重な行動なんて無理。思いつきで異常行動を繰り返してしまう。
疲れがわからなくなるので限界まで頑張って、突然倒れる。散財やら酒タバコなどの各種依存性があるものに、どっぷり浸かってしまう。双極性障害やうつ病の患者は依存症に対する依存症みたいなもので何かしらにすがりついてしまう傾向がある。

もちろん僕もそうだ。ここ数年はバイクにすがりついてしまった。その前はアニメだったかな。そういえば、死んだおじいちゃんも双極性障害で、アルコール中毒だった。

 すがりつきからくる苦しみは深い。

しかも、すがりついている間、それが苦しみであるという発想に移ることは
当人にとっては極めて難しいものだ。すがりつきに苦しんでいる人はその苦しみや飢餓感がすがりつきからくるものとどうしても自覚できないものである。

 とはいえ、鬱より躁がまだマシだ。動ける。何かを変えることはできる。鬱は辛い。何もできない。無力感と脱力感に苛まれ、1日が終わってしまう。

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躁転。そしてラパイドサイクラー(躁鬱混合状態)へ(੭ ˃̣̣̥ ω˂̣̣̥)੭ु⁾⁾


 僕が鬱から躁に転じたのは2015年、年始。

 きっかけは不景気による残業規制で仕事の負担が減ったこと。そして時を同じくして急性盲腸炎で1週間入院してのんびりできたことが大きかった。
 術後の痛みやら全身麻酔後の倦怠感で体はすごく辛かったが、精神的な面だけでいうと、入院生活は穏やかで心地よかったのだ。

 3月ごろには鬱っけが抜け、4月ごろにはすっかり躁転した。

 だが当時、それが躁転とは気づかなかった。鬱が治ったのだと、僕は誤解していたのだ。そして僕は対処を間違える。躁の状態を正しい状態(寛解)だと見誤り、それを維持してしまったのだ。

 やがて僕は疲労感を一切感じなくなった。仕事もプライベートもバリバリ回して、万能感、多幸感に包まれて一時の幸せを噛み締めたのもつかの間、6月には自分の人格がイかれていることに気がついた。疲れない。寝れない。落ち着かない。何かをやりたい衝動が、止まらない。どんなに頑張っても落ち着いて休憩が取れなくなったのだ。体はどんどん重くなり、睡眠のリズムが取れなくなり、頭はぼんやりしていく。みるみると自分の性格が攻撃的になっていく感覚は今思い返しても恐怖そのものだ。

 7月2日。

 ついに僕は倒れた。

 徹夜で引越ししてしまうという躁鬱病にありがちな失敗を犯したのだ。

 呼吸ができず、胃液は逆流し、僕は一晩もがき苦しんだ。僕は取り返しのつかないところまで病気が進んだと自己判断し、休職を決意した。その判断は、今思えば冴えていた。

 この日をきっかけに僕は躁状態から混合状態という病相に移行する。

 混合状態とは鬱と躁が同時に襲いかかってくる状態だ。その状態の苦しさはなんとも言葉に表現することが難しいが、

僕の場合は1日に数回、躁の人格と鬱の人格が入れ替わる状態が約1ヶ月続く。ラパイドサイクラーと呼ばれる病相である。

 人格切り替わりの前後で記憶は連続しているし、割と客観的な思考(ああ、僕はイかれているなぁ、とか)もあったし、何より妄想や幻覚がなかったので入院することも逮捕されることもなく何とか生き延びることができた。
 今思い出しても人格が入れ替わる瞬間は本当に気持ち悪いものである。
 特に躁から鬱に入れ替わる時の自殺願望は病気の症状の一つと自分で解っていても、抗いがたい強烈な衝動だった。

 混合状態の1ヶ月はまさに生き地獄。

 肉体的な面で言えば、双極性障害によるストレス起因の自律神経失調による、極度の不眠、呼吸困難、逆流性食道炎、手足の震え、ドライマウス、全身の筋肉の緊張で体はバッキバキに硬直し、酷い腰痛に苛まれた。人間よくもまぁストレスだけでここまで不健康になれるもんだなってある意味感心すらした。
 なお、自律神経失調については、その後、ヨガと瞑想により1ヶ月で寛解する。
 ストレスが無くなると共にこれらの体調不良が嘘のように落ち着いたのだ。逆に言うと、そこで一連の体調不良が自律神経失調によるものだということを、ようやく確信することになった。

 自律神経失調症は全身の漠然とした体調不良として現れる。

原因はざっくり言うとストレスだ。
 基本的に病院に行っても特に悪いところはないと言われるだけ。様々な身体不調があるのに、精密検査しても原因がわからない、、そんな時疑ってみるべき病気の一つが、自律神経失調症だ。もちろん混合状態の期間はメンタル的にも最悪で数時間置きに来る自殺願望、いや自殺衝動を抑えるので精一杯といったところだ。

 とまぁ、こういう書き方すると休職中はさぞやぐったりしていたかと思われるかもしれないが、現実はそうでもない。

最高にぐったりする時もあれば、ある時は異常に元気だった。

 とにかく、混合状態における躁の時の行動力は凄まじい。
 当時僕はバイクで色んなところを旅してしまった。旅に出たい衝動が抑えられなかったのだ。目的としては正真正銘、自分探しの旅だ。

 もちろん旅先でも定期的に人格の切り替わりと自殺願望は発症する。毎日このまま事故に見せかけて崖から落ちようかなってよく思ってたものだ。自殺願望については医者には一切相談しなかった。バレたら即入院だと思っていたからだ。

 旅は楽しかった、ようなきがする。はっきりとは覚えていない。

 6月から7月にかけては記憶が断片的なのだ。

 バイクの改造にものめり込んだ。
 毎日合計して6時間くらいは異常に元気な時があったので点検やら整備やら改造やらで大忙しだった。気がつけば、預金は全部無くなっていた。バイクは少しだけ、速く、かっこよくなった。
 自転車にものめり込み、毎朝練習してたら合計1000kmくらい走ってしまった。ジョギングにも精を出し、筋トレもしていた。
 その一方で、もちろん毎日どこかで鬱に転じる。そんな時は布団の中で一切身動きが取れなくなり、人生に絶望したりしていた。

 思考能力、判断力、記憶力、運動神経、反射神経、それら全てが数時間ごとに時事刻々と変化していく。好みや意見すらコロコロ変わる。菩薩のように優しくなったり明王の如く攻撃的になったり、まさに、人格が入れ替わるという表現がぴったりだった。もはやどれが本当の自分なのかわからない、というのがその頃の最大のストレスだった。
 ああ、僕は今、まさに自分を見失っているんだなという、強烈な実感。自己同一性の問題に直面したのである。ひたすら苦しかった。不安定すぎて、自分で自分をコントロールできなくて、もう障害者手帳給付してもらって一生年金暮らしするしかないんじゃないかって思ってた。

 ただ、そういう不幸タイムは毎日数時間程度だ。
 躁の時は異常な万能感と多幸感に包まれるので、それはそれで貴重というか、むしろある意味楽しかった。ああ、覚せい剤をキメたらこんな感じなのかなーとか思ってた。何をやっても疲れない、落ち着かない、でも体はずっと重い。そして突然強烈な疲労感に襲われ、鬱に転じる。躁の間はとにかく何かやらなきゃって衝動がすごい。自律神経失調でガタガタになった体に鞭打って、僕はとにかく何かをやっていた。ジッとしてはいられなかった。

 双極性障害者が躁になると、客観的に見たらただの元気な人なのだ。誰からもかわいそうとは、まず思われない。むしろクズ扱いされる場合が多い。

僕の場合、幸いにも症状が軽かったので、その気になればいつでも正気を演じれた。だから他の人から気づかれることはなかった。知ってたのは主治医だけだ。
 妻ですら、僕の狂気は判らなかった。だが自覚してただけ、僕は幸せだった。
 躁の時は行動力と決断力だけはある。だが、判断力はない。全てにおいて変なことばかりやってしまう。わかっちゃいてもやめられない、とはまさにこのこと。散財なんてその最たるものだが、細かいところでいうと酒飲みたい衝動とか、食欲抑えられなくて激太りしたりとか、タバコの本数がすっごく増えたりとか、とにかく全体的に生活が崩壊していく。落ち着きがなさすぎて休憩できず、疲れでどんどん体調も悪化していく。

 こうして、いずれ周囲からの信用を失っていく。そこに社会性はない。
 これが双極性障害の怖さだ。

 双極性障害の全世界における生涯罹患率は3%程度と言われる。

ありふれた病気の一つである。
無自覚な双極性障害者が、世間にどれほどいるだろうか。
そういった人を救うため、僕はこの病気の知名度を上げたい。
これがこの本をあえて実名で書こうと思った理由である。

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メンタル系の病気における自己責任の範疇についてԅ( ˘ω˘ԅ)

 メンタル系の病気は難しい。
 例えばうつ病とは違って双極性障害者の行動は周囲から理解されることはまずない。
 僕の場合のように症状が軽ければ、端から見ても単にだらしなくも元気なクズに見えるだけなのだ。

 気分障害は個性と病気の間のグレーゾーンがとても広いことも、また厄介な点だ。

僕の意見としては

自己責任の元に医者に頼ることなく自身の努力でどうにか自分をコントロールできている間は「個性」。僕みたいに薬なしで自分をコントロールできないなら、それは病気だ。

鬱や躁鬱病などの気分障害から立ち直りたいとすれば、

 病気に対して正しく自覚できるかどうかも重要なポイントだ。

まず、自覚と達観なしには正しく病気と闘うことはできない。
 それにうつ病と躁鬱病は似て非なる病気であり、薬の種類も対処も違う。
 鬱と躁鬱(双極性)の大きな相違点は、鬱は治るが躁鬱は完治しない、という点だと思う。大抵の躁鬱病患者は寛解期もしくは躁の時に「完治した」と勘違いして投薬を止めてしまい、再発するのだ。

 この病気は一生投薬して慎重に寛解を維持するしかないのである。

 僕はこの病気をちゃんと受け入れて、開き直るのに、約1ヶ月を要した。

 精神障害者であることを受け入れることは自分との戦いである。

激しい自己嫌悪、社会で生きていけるのかに対しての葛藤そして何より、

 責任の放棄が付きまとう。

自分がだらしないのは
自分の所為なのか、病気の所為なのか
どこかで割り切りして区切りをつけないと、
自己嫌悪で押しつぶされてしまう。
だが、自分の所為から病気の所為への発想の転換と割り切りは、
正義感や常識を持った人からすれば、
それそのものがストレスだ。

 どこまでが病気で、どこまでが自己責任なのか自分の中で線引きをしたとしても周囲の人たちがそれに理解を示すとは限らない。ある人はもっと頑張れよと言うし、またある人はゆっくり休めと言うだろう。その線引きは日常のあらゆることに付きまとう。何かがやれなかったとして、それが果たして病気の所為か、努力不足なのか、どこまでが自己責任なのか。。。

 結局のところ、線引きについて、周囲に理解を求めるのは不可能と言っていい。

とやかく言われても耳を貸さずに自分を信じるしかない。

何せ当人にすら、
どこまでが病気でどこまでが自己責任なのかなんて
判らないのだ。

もちろん僕も未だ、
かつてのだらしなさのどこまでが病気だったのか
なんて判らない。

だからこういった線引きにおいて、
それを人に理解してもらおうなんて
まず不可能だ。

なお、瞑想で僕のだらしなさは一切消えた。不思議なものである。 


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理系男子が瞑想を通じて、宗教に何を見出したか。

 闘病生活に話しを戻すと、もちろん一番大切なこと、意識したことは、休憩だ。

 躁は休憩が下手くそになる。

徹底的に休憩を意識するのは躁における闘病のイロハのイである。正直苦労した。

 あの落ち着きのない心境で休憩に取り組むことは実に困難を極めた。休息がまず一番大切だが、それ以外にも闘病の一環として毎日訪れる躁の人格の間、僕は社会復帰のため、自分の改造にのめり込んでいく。

 まさしく修行の始まりだった。人生を賭けた修行である。

 とはいえ何をやればいいのかはもちろん知らなかったので手当たり次第、いろんなことに挑戦した。ジョギング、サイクリング、筋トレ、気分転換がてらのバイク行脚、家事、掃除、風水、宗教、ヨガ、瞑想、読書、お経通読、そんなところだ。

 結論から言うと、呼吸の練習と瞑想は効果覿面だった。
 ライフハックとしての宗教もなかなか良かった。

 呼吸、瞑想、宗教、それらを本気でやってみるとわかるのだが今、冷静に俯瞰するだにこれらは一本の線で繋がっている。不可分な概念だと思う。それらが目指している地平は皆同じだと思った。特に東アジアの宗教と瞑想は深いつながりがある。

 また瞑想と呼吸は切っても切れない存在だ。

これは知識というよりまさに体得だった。実戦あるのみである。
 騙されたと思って1ヶ月くらい取り組んでみないと効果は出ない。

 休職して2ヶ月くらい経ち、瞑想が上手になった頃、僕はようやく心が落ち着いた。

 僕はその状態を瞑想的な気分と名付けている。

僕にとっては鬱でもなく躁でもなく、単なる寛解でもない、また新たな人格だ。
 するとそれまで頑張っても出来なかったことが自然にできるようになった。いろいろなことができるようになった。ここでいういろいろなこととは、生活におけるおおよそ全てのことだ。躁だとやれることは限定的かつ極端になるが、瞑想的な気分を維持すると何もかもに、適切に、集中することができる。そしてちゃんと疲れて、休憩ができる。この本も、瞑想的な気分で文章を書くとどうなるか試したくなったというのが創作意欲の源である。

 例えば、適切に集中して本を読むことができるようになった。
 ちゃんと読書できる心境になった僕はそこから1ヶ月間、宗教と哲学の本を貪り読むこととなる。人間、追い込まれると宗教に逃げてしまう気持ちが、今ならよくわかる。日本人はある意味例外だが、全人類を虜にする宗教の魅力を、僕は垣間見た。

 一方、僕は理系だ。さして信心深くはない。理性的には機械論を信じている。だからこれまで日常生活で宗教を深く意識することはなかった。とはいえ、完全潔癖な無神論者でもない。

 神社でも寺でも普通に八百万の神へお祈りはするし、クリスマスも正月も関係なく祝う、友人が教会で結婚式を挙げるのであれば、ゴットの前で心より祝福を捧げる。
 お釈迦様、天照大神、ヤハウェ、ゴット、アッラー、地蔵菩薩、等々、すべての神へ無節操に祈りを捧げても別にいいやと考えている、なんでもあり派だ。もちろん自分の宗教が何なのかは自覚していなかった。排他的・攻撃的・独善的な宗教だけは嫌いだった。いわゆる日本人としてわりと一般的な宗教観だと思う。。

 無神論者ではなかったものの理系男子として不可知論、唯物論、機械論を信仰していたこの僕が、精神の病から救われたい一心で、それこそ藁をも掴むような心境で宗教について学び、何を感じたのか、この本で記したい。

 結局のところ僕はさほど信心深くないが、
 ライフハックとして宗教はいいなと率直に思った。

 人生をよりよく生きるためのヒントが、散りばめられているのだ。

 僕は約1ヶ月で自律神経失調症を克服した。
 普通、半年くらい療養が必要な病気である。
 気分障害からの回復はそれに比べて緩やかではあったが結局3ヶ月で社会復帰した。
 双極性障害の混合状態という、かなり危険な状況から奇跡的に復活できたのである。

 むしろ、今とても調子が良い。怪我の功名とはまさにこのことで、休職期間中の瞑想・ヨガ・呼吸の訓練は僕の人生を変えた。

 瞑想的な気分を獲得したことによる、無欲・無我・無双な感覚だ。

躁的な多幸感や万能感とはまた1種違った穏やかで心地よい心境である。
 躁的な幸せさとの決定的な違いは、心の落ち着きと圧倒的な集中力だ。
 依存やすがりつきもすっかり無くなってしまった。体も軽い。断酒や食事制限などの節制・セルフコントロールも思うがままだ。自分をコントロールできる感覚は本当に心地よいものである。

 そこには物質的な豊かさだけでは得られない幸せの境地があると確信している。
 究極の俗物だったこの僕の、次の夢は今や、出家して坊さんになることである。

 僕はかつて、精神的肉体的に徹底的に追い込まれたからこそ、今のとてつもない健やかさがあるのだと思っている。

 もしかしたら僕がキチガイだから瞑想が特に効果的だったのかもしれない。
 キチガイに刃物というとちょっと意味合いが違うが、

 双極性障害者に瞑想は鬼に金棒だと僕は思っている。

だがきっと健常者にだって、瞑想はとってもいいものなのではないかと思う。
 いや、確信している。きっと良いに違い無い。

 だから僕は本書で瞑想の素晴らしさを伝えたい。

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【躁鬱病闘病記】妻との出会いと、僕の記憶障害(鬱による健忘症のエピソード)

 2014年12月23日、天皇誕生日。
 
 その日、僕は彼女にプロポーズした。

 本当はクリスマスイブにプロポーズしたかったのだが、当時僕は仕事が忙しく、有給なんて取ってる場合ではなかったのだ。このプロポーズは今でも正しい決断だったと信じている。

 その後、突然会社を3ヶ月休んだり、躁の勢いで全財産をバイクにつぎ込んでしまったりと結婚間際にとんでもなくドタバタしたが休職期間中の2015年9月5日、僕らは無事、入籍することができた。

 それは僕の32歳の誕生日。
 久々に無垢な幸せを噛み締めた1日だった。
 7月~8月は我ながら生き地獄だったこともあり、喜びもひとしおだ。


 今は妻と二人三脚で慎ましくも幸せに新婚生活を営んでいる。
 体は軽く、心も平穏で明瞭だ。
 このクリアな感覚を文章で平易に表現することは難しい。この適度に研ぎ澄まされ、決断力もあり、落ち着いて、クリエイティブで、平穏な感覚は、これから語る、僕なりの修行・努力で勝ち取ったものだ。

 だが、僕を変えるきっかけを与えてくれたのは、紛れもなく彼女である。

 僕は結婚を意識し始めた時から、なんとかして自分を変えなくては、と焦っていた。結婚は僕を追い詰めたプレッシャーそのものでもあり、その一方で変化のきっかけでもあった。結婚さえしなければ、躁鬱病でも辛うじて一人で生きていくことはできる。たとえバカにされてもクズ扱いされようとも、自分の問題として抱え込めばいい。でも家庭を持つとなれば、話は別だ。病気が、自分のクズさ加減が、自分一人の問題ではなくなるのだ。

 愛だけで結婚生活は成り立たない。
 僕の不安定さは、社会生活ひいては結婚生活を送るにあたり致命的な欠点であり、
おそらく彼女は絶対に耐えられないだろうなと、ぼんやり考えていたものだ。

 プロポーズの前後は今思い返せば鬱から躁へと人格がゆっくり切り替わっている時期だった。あの判断をした自分が、果たして正気だったのか、狂気だったのか、今でもよく分からない。結果的には良かった。やっぱり今は幸せだ。あの判断力がない時期に、よくもまぁ素晴らしい決断をしたものである。

 彼女とは2014年の8月に出会ったらしい。

 出会ってから婚約するまでの約半年、僕らは毎週のようにいろんなところへデートに繰り出していたようだ。彼女は神社巡りが大好きで、僕はバイクに乗るのが好きだったからバイク二人乗りで各地の神社に参拝するのが僕らの週末の日常だった。

 僕のFacebookにはそう書いてある。詳細は覚えていない。

 前述した通り、僕は2013年と2014年の記憶があまり無いのだ。
 当然、彼女と出会って半年間の思い出がおぼろげだ。幾つかの風景は写真のように覚えているが、そこにストーリーは無い。何もかもが断片的で、脈絡のない記憶しか、ないのだ。今でも妻と当時の思い出を語る時など、困り果てることがある。

 そんな感じで2014年は記憶がない程度で、まだマシだった。
2013年は対人コミュニケーションする気力や思考能力が無く、彼女を作るなんて到底無理な状況だったのだ。記憶もほとんど欠如している。そこから彼女ができるような状況まで回復したのだから、驚異的である。

 2014年の年末年始、僕は彼女と伊勢神宮に旅行した。
 この頃から僕の中での、僕と彼女の思い出が始まる。仕事のプレッシャーから解放され、ひとときの休暇を楽しんだのだ。彼女は神社の厳かな雰囲気が好きらしい。癒されるという。僕はと言うと、当時まだ宗教とか人並み程度しか興味はなかった。
 
 旅行は好きだった。いや、バイクや車での移動が好きだった。僕はそれまで観光そっちのけでバイクでウロウロするのが好きだったのだが彼女ができて以来、意識して神社巡りするようになった。それが今の僕の宗教観の土台を形成しているところもある。

 伊勢神宮旅行は妻との大切な記憶である。
 志摩のリゾートホテルでのんびり過ごしたことも
 内宮でこれからの幸せについて一緒にお祈りしたことも
 帰り道で大雪に見舞われてドキドキしたことも
 刈谷ハイウェイオアシスの観覧車で一緒に流れ星を見たことも
 今でもなんとか思い出せる。

 記憶を失うという経験は、まぁまぁ珍しいのではないかと思う。
 であるからこそ、思い出って本当に大切だなぁとしみじみと感じる次第だ。僕にとっての空白の2年間は、悲しみと喪失感でいっぱいである。

 皆さまはストレスで健忘症になったことがあるだろうか?
 たかがストレス、されどストレス、である。
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【双極性障害】大うつ病エピソードへの転落(;´༎ຶД༎ຶ`)

 双極性障害の闇は深い。

 気分障害がもたらすストレスが、僕を健忘症に追い込んだのだ。

僕はいわゆる一般的なうつ病ではないが、長年、自分はうつ病だと思い込んでいた。だから多分、僕にもうつ病の人の気持ちはわかる。

 例えば、僕の場合「こんなはずでは。。」というストレスだ。
 鬱エピソード期間中、僕はかつてやれていたことが何も出来なくなった。
 仕事もプライベートも、何もかもだ。
 そしてその間、おおよそ全ての好奇心と集中力が無くなった。

 僕は技術者だ。技術者の原動力はズバリ、好奇心である。

好奇心のない技術者というものは創作意欲のない芸術家のようなもので、何も創造出来なくなるのだ。サラリーマンエンジニアとして、2年間、僕は死んでいた。もちろん社内は居心地悪い。結果が出せなくて上司には散々怒られた。

 好奇心と行動力だけが取り柄だったこの僕からそれらが奪い取られた時の絶望感たるやおそらくは皆様の想像を遥かに超えたところにある。率直に言って、僕は未来に絶望していた。かといって、どうやってこの状況から這い上がればいいのか、分からなかった。
 昔やれてたことができない、やれない。こんなはずでは、、と毎日自己嫌悪に陥る。上司には毎日罵倒される。

 理由はもちろん分かっていた。体調不良によるストレスだ。最悪の状況である。

ストレスが気分障害引き起こし、それそのものがストレスとなりさらなる気分障害へと繋がっていく。

この負のフィードバック、言わば無限ループは一度ハマって放置するとあっという間に発散する。


 だからうつ病などの気分障害を患っている人は、実は誰よりも頑張っている。

傍目には頑張ってるようにはまず見えない。が、本人は辛いし、頑張ろうとしている。そして、その人なりに精一杯頑張らないと、ストレス→体調不良→体調不良によるストレス、の無限ループであっという間に廃人になってしまう。現状を維持するだけでも精一杯だ。例えばそんな時、そういう人に言ってはいけないNGワードが「頑張れ!」だったりする。

 かつて僕は気分転換として、幾つかのルーティーンを持っていた。
 だからその日までは、ある程度の鬱までは耐えられていた。
 やばいと思ったらすぐにジョギングしたり筋トレしたりして気分を変えていたのだ


 問題はルーティーンする気力・体力すら無くなるまで追い込まれた時。
 それが僕にとっては2013年6月。僕はあっという間にどん底まで落ちた。


 気分障害とは一般的には脳内の神経伝達物質の調整が効かなくなった状態をいう。

別の言い方をすれば、気合いや根性ではどうにもならない状況だ。
 病気なのだ。
 だから神経伝達物質の調整を助ける薬として安定剤や抗鬱剤を飲めば気分障害だけならだいぶマシにはなる。僕も薬は手放せない。やはり飲むとテキメンに効果がある。ちなみに飲み忘れた時の離脱症状は本当に辛い。

 ただ、ストレスが引き起こす身体不調は気分障害だけにとどまらない。
 体がだるい、筋肉が強張る、などの漠然とした体調不良も同時に襲いかかる。

 ストレスが脳に与える変化を鬱とすれば、体に与える変化は自律神経失調と言われる。

安定剤や抗鬱剤だけでそれらにも対処できるとは限らない。

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【自律神経失調症】鬱による体調不良を自覚した瞬間


 僕は医者じゃないので具体的なことを書くことはできない。

 ただ僕の個人的意見としては

 鬱と自律神経失調(体調不良)はセットで対処すべき、と考えている。

多くの人は片方だけに自覚的なのではないかと思う。少なくとも僕はそうだった。

 そもそも自分は単なるうつ病だと勘違いしていた。腰痛、ドライマウス、逆流性食道炎、呼吸困難、動悸などなど、僕は様々な身体不調を患っていたのに、それらの原因がストレスだと気がつかず、対処を間違えたのだ。

正確に言うと自律神経失調症という病名はない。
Wikipedia
から引用すると
>種々の自律神経系の不定愁訴を有し、
>しかも臨床検査では器質的病変が認められず、かつ顕著な精神障害のないもの
これが定義らしい。

自律神経失調などの

ストレス性の体調不良は、いくら病院に行こうが、診断結果は「原因不明」だ。

何せ正式に認知された病気でもないからだ。
 僕もたくさんの病院をたらい回しにされ、無駄な医療費を費やした。あまりに腰が痛いので整体やらマッサージやらに通い詰めてしまった。サプリメントにも無駄な金をつぎ込んだ。一体、気分障害の所為で僕はどれほどの金を使ってしまったのだろうか。


 結局、瞑想とヨガをやったら僕はストレスから解放されそれらの諸症状は全部治ってしまった。今、僕はとても健やかである。

 とにかく体が軽い。体が動く。だから筋トレやジョギングに打ち込める。打ち込めるだけの適切な集中力がある。すると夜ぐっすり眠れるし、翌朝はさらに元気になる。過集中で突然疲れ果てて動けなくなる、なんてことはない。良い方向の無限ループである。

 まぁこれは健康な人に限らず双極性障害で躁状態になった時も似たような状況だ。

 とにかく体が動くので運動やらに励んでしまい、さらにテンション高くなってなおさら運動してしまう。何かをやりたい衝動に駆られて、何かにハマり、さらにハイテンションになってしまう。ただしこのループは、そう長くは続かない。

 ハイテンションになるとどうやっても寝れないし、過集中で過度に疲れる。
 しかもその疲れはギリギリまで自覚することはできない。ある日突然倒れてしまう。
 体がずっしり重くなり、気力も吹き飛び、身動きが一切取れなくなる。

 これが疲れが溜まり、鬱に転じる瞬間だ。


 これを双極性障害者は数年周期、あるいはもっと短期間に繰り返すのが一般的だ。

 病相が混合状態であれば、これは数時間周期となる。

もちろん僕もこれまでに数え切れない程、やらかした。
 気分管理にしくじって、幾度となく躁転・鬱転した。
 結局の所、鬱から立ち直ろうとする際にハイテンションを目指すのは危険行為だ。
 
 そういう行為は双極性障害を引き起こす場合がある。僕はその間違いを何度も犯した。目指すは普通・寛解なのだ。

 今一度、僕が悩んでいた自律神経失調症(体調不良)について列挙する
  1. 動悸
  2. 筋肉が強張る、緊張が取れない
  3. 筋肉に力が入らない
  4. 平衡感覚が狂う。バランスが取れない
  5. 手足の震え、字が書けない。細かい作業ができない
  6. 食道が動かず、胃液が逆流したり物が飲み込めなくなったりする。
  7. 呼吸困難
  8. ドライマウス
  9. 就寝中の酷いいびきと歯ぎしり
  10. 聴覚過敏
これらは病院に行っても全て原因不明だった。
 もちろん、自律神経失調という診断ももらえなかった。だが、ストレスが無くなると共に消えた症状だ。だから僕は治るまでほとんど気がつかなかった。治って初めて、これらが自律神経失調、すなわちストレスによる体調変化だったということに気がついたのだ。

 ただ2つだけ、倒れる前に自覚した自律神経失調の症状がある。呼吸困難と逆流性食道炎だ。

2015年、7月2日。
 僕は結婚を機に引越しをした。

 徹夜の引越しを終え、最低の体調と最悪のメンタルで夜布団に入った時僕は奇妙な息苦しさを覚えた。息が吸えない、吐けないのだ。恥ずかしながら喫煙者なので、まさかこの歳で慢性閉塞性肺疾患か!?とびっくりしたことは、なんとなく覚えている。僕は一晩もがき苦しみながらつぶさに呼吸を観察していた。どうやら横隔膜が上手に動かせていないような気がした。

 肺呼吸は意識すればなんとかできる。
 でも腹式呼吸は意識してもやれなかった。
 そして意識をやめると呼吸が止まる。もしやこれはいわゆる自律神経失調というものの症状なのではないか?ふとそんな考えが頭によぎった瞬間だ。


 だが今はとにかく寝ようと思い、睡眠導入剤を水で飲み込もうとした。しかし今度は錠剤が飲み込めない。食道がまともに動かなくなったのだ。そして布団の中で寝転がると胃液が逆流し、喉が焼けるように熱くなった。逆流性食道炎である。

 その時だ、僕が確信したのは。嗚呼、これは噂に聞く自律神経失調症以外の何物でもない。このままでは結婚しても絶対に家庭が崩壊する、今療養して、身心共に健康を取り戻さないと取り返しがつかなくなる、と。僕は病気療養休職を決意した。


 おおよそ全ての体調不良が、実はストレスからくる心因性のものではないかという、その時の気づきは、今思えば大きな収穫だった。

以来、僕は体調の変化をいつも自分なりに分析するようになる。気分だけでなく、体調の機微にも注目して気分改善修行を行うようになったからこそ、僕は自律神経失調症を克服できたのだと考えている。

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【躁鬱病闘病記】社会人生活をギブアップして夢の闘病生活に突入

2015年 7月2日。 
僕は休職を決意した。ギブアップである。

 そこから1週間は仕事の引き継ぎだ。

 体はガタガタだがカリカリの躁状態だったので、仕事はバリバリやった。

休む気満々で全力で引き継ぎを行った。
 最後の二日はなんだか涙が止まらなくて泣きながら仕事していたようなきがする。
 記憶は断片的だ。

 その1週間は僕が生まれて初めて自己の狂気を隠し通すことができなかった期間だ。
 それまではやろうと思えば普通や正気をいつでも演じることができていた。
だがその期間だけは、狂気を理性で包み隠せなかったし、隠せないと思った。

 僕はこの病気を一人で抱え込むことはできないと判断し
 カミングアウトする戦略に切り替えた。それまで僕は周囲に隠し通していたのだ。

 この週だけは客観的に見ても、僕は狂っていたと思う。
 周囲から休めと言われたのも、その時が初めてだ。

 逆に言うとそれまで周囲は僕の異変には気付けなかった。
 婚約していた彼女ですら、だ。
 それほどまでに僕の症状は軽い方なのかもしれない。あるいは、双極性障害について、周囲が先に気づくことなんて、不可能なことなのかもしれない。何せ僕は健忘症が酷かった時期でさえ、周囲の人間は僕にダメ人間の烙印を押す程度で、心配されることなんて皆無だったからだ。

精神障害者なんて結局、世間ではクズ扱いされるだけなのだ。

休み始めてから2週間くらい、記憶はほとんどない。

 とにかく体がガタガタで疲れ果てているのに、たとえ睡眠薬を服用しようとも、まともに寝ることは出来なかった。その一方、躁の時にいろんなことをやらかしてしまった。完全に社会性が無い状態だった。落ち着きが無さすぎるが故に、意思決定が下手過ぎて、責任の伴う行動なんてまず不可能な状況だったのだ。

 だが少なくとも1日に1回は正気を取り戻していた。そんな時は微かな理性の中でとにかく重大な決断だけは棚上げにしておこうと心に誓った。重大な決断というのは例えば、婚約破棄、退職、自殺などのことだ。

 ちなみに一時的に正気を取り戻す感覚はかなり不思議である。
 突然落ち着いて、頭がクリアになり、考えがまとまるようになるのだ。何もかも冷静に客観的な視点を持って正しく決断することができるようになる。

 もちろん正気は長く続くものではない。その頃、僕はせいぜい1時間くらいしか正気を保てなかった。次はどんな人格が訪れるのか、そんなことを冷静に考えるだに恐怖だった。次の人格で僕は一体どんな行動をとってしまうのか、想像がつかなかった。散財ならまだしも衝動的に自殺しちゃうんじゃないかと、とても心配だった。

 自殺に対する不安、これは誰にも相談できなかった。
 なんとなく精神病院に措置入院されたくなかったのだ。
 もちろん、人格が躁にいれかわったら、そういう不安は一瞬で吹き飛んでしまう。そういう時は万能感・多幸感が支配的だ。寝起きは常に躁だった。連日4時起きの早朝覚醒が続いた。

 一方で当時はまだバリバリの混合状態なので鬱な時も頻繁にあり、そういう時は人生に絶望しながら実にぐったりしていた。だいたい夕方は鬱だった。

 記憶がおぼろげとはいえ
 躁の時、特に早朝は酷いテンションでFacebookにいろいろ書き込んでいる。
 だから、今でもなんとなく自分の足取りを掴むことは可能だ。

 ただ、躁の時に書いた文章は酷い。


 狂気というか、承認欲求がにじみ出てて、実に気持ち悪い。ドヤ顏すぎて恥ずかしい。今では読み返す気になれない。SNSとはげに恐ろしきものである。

なお、瞑想で気分が寛解したら各種承認欲求がなぜか消えてSNSとかブログに何かを書き込もうという衝動は一切消えた。それまで僕は典型的なSNS中毒者だったのだ。

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【双極性障害】 混合状態という地獄。うつと躁が同時に襲いかかってくる状態

 さて、休職初期、7月頃の混合状態での話を続ける。

 7月後半は午前中が躁、日中が正気、夕方から寝るまでは鬱で就寝前は自殺願望と戦う、という規則正しいリズムが続く。

 7月前半はこのリズムすら無く、苦労した。数時間おきにぐるぐるぐるぐる人格が入れ替わり、何もできなかった。1時間後の自分が、未来が、どうなるか想像がつかなかった。そんな状況だと何も計画を立てれないし、何もできなかった。怖いのであえて何もやらなかった。必死だった。できる限り何もやらないというのは、極めて衝動的だったその頃の気分からすれば困難を極める、まさに命がけの挑戦だった。

 そんな中、一つだけ良かったことがある。

 正気とは何かを自分の中で掴んだのだ。

 自分が目指すべき人格が、ゴールが、明確になった。
 ゴールさえ明確ならば、気分改善の取り組みを行うにあたって、その結果の良し悪しを判断できるようになる。様々な気分を立て続けに経験することで、普通の健常者よりも自己の気分に敏感になったはずだ。今、僕は誰よりも心身ともに健やかだと思っているが、この境地にたどり着く為にはこの経験は欠かせないものだった。この点について、僕は恵まれていると感じている。


その後、精神安定剤と睡眠薬を服用して休憩に全力を捧げ、生活のリズムに気を使い、思いつく限りのやれるだけの心を落ち着けるための所作に没頭すること約2週間、辛うじて人格の入れ替わり周期をとりあえず規則正しくデイリーな感じまで持ってこれたので、僕はようやく日々の行動について計画が立てれるようになり、行動的になれた。

行動的に、なってしまった。散財の始まりだ。


7月後半。
 午前中は凄まじい行動力である。万能感と多幸感に包まれてまさに有頂天だ。

 頭もキレッキレでああ俺は天才だなとか真剣に考えながら思いつくことをガムシャラにやってしまった。だいたい昼になると疲れ果て、我に返って正気に戻り、とにかく休憩しないとと思い、おもむろに昼寝を始める。
 夜は食事作ったり読書をしたりのんびりしたけど基本的には鬱傾向だ。夜寝る前はこの先の未来に絶望しながら、強力な睡眠薬を服用して就寝した。そして朝起きたらまた躁有頂天で幸せ絶頂。

 落ち着かない忙しい日々だった。もちろんそんな状況でもとにかく休憩にだけは気を使っていた。僕なりに必死に気を使ってはいたが、躁の落ち着きのなさにはなかなか太刀打ちできず、だいたい疲れ果てていた。

 ちゃんと常識的な範疇で疲れを感じて適切に休憩できるようになるまで3ヶ月、疲れをきちんと自覚して、ちゃんと休憩するようになれるまで結局、半年はかかっている。

 休憩が極めて難しいという感覚は、おそらく健常者には理解しづらい躁鬱病特有の病相だと思う。

今でも僕は休憩が下手だ。感覚を頼りに疲れを把握して休憩することはできないので仕事ではポモドーロテクニックを駆使せざるをえない。

 話戻って療養休職し始めの頃だが、日々の躁タイムは引越しに没頭していた。
 家具や生活用品を必死に揃え、とりあえず賃貸ながら素敵な新居が完成した。そこでまずかなりの金が消えた。
 
 次はバイクと自転車の改造に勤しんだ。まさに夢中だった。また金が消えた。それはもう、すごい使命感だった。結婚前になんとしても改造をやり遂げねばという、謎の使命感。我ながらかっこよいバイクが完成した。大満足だった。

 躁は本当に恐ろしい。金銭感覚が如実に吹き飛ぶのだ。

何もかもが我慢できない。貯金の残金とかキャッシュフローがどれほど破綻していることに自覚的であったとしても、僕のようにたとえ愛する人との結婚が控えているとしても、我慢できるような状況ではないのである。実に病的だ。

煩悩に人生がめちゃくちゃにされていく感覚は恐ろしいものである。


 7月下旬
 バイクのチューニングが落ち着くと、次はせっかくの長期休暇なのだからとりあえず旅に出なければ!!という、これまた謎の使命感が湧き出てきた。僕はフィリピンでのバックパッカー旅行の計画を必死に練った。考え抜いた末、来月妻となる予定の彼女に相談すると
「それのどこが病気療養なの?バカじゃないの?」
と軽く一蹴された。かなり怒られた。
ああ、確かに、、と僕は少し我に返った。
そこで僕は仕方なく質素なバイク旅行を計画し始める。

 体調が少し落ち着いた7月下旬から8月にかけ、僕はいろんなところを旅した。
 この旅で僕の状況は少し良い方向に変わった。旅の途中で知人に会い、色々と相談していく中で少しづつだが自分をまともな方向に向けることができた。

一方、金は尽きた。

来月にはいよいよ入籍だというに、
貯金を完全に使い果たす休職中精神障害者31歳11ヶ月が、
そこにいた。僕である。

 そんな自分に夕方ごろとかに定期的に絶望しながらも、休職期間中はなんだかんだ充実していた。最高に幸せだったり最低に不幸だったり、元気ありすぎたり元気なさすぎたり、毎日本当に忙しかった。

 充実感はあった。休職して本当に良かった。それらはすべて貴重な経験ではあった。とはいえ、危うく自殺するところだった。本当に危うかった。

 そう、これが双極性障害の混合状態というものだ。

躁鬱病が悪化すると、どれだけ人生がめんどくさいことになるか、
皆様に少しでも伝わればこれ幸いである。

 これが普通の鬱ならば悪化したら死ぬ気力さえ無いのである意味安全だが、躁鬱病混合状態の場合、将来への絶望に妙な使命感と行動力が兼ね備わった極めて危険な状態になってしまう。僕も稀にある正気に戻ったひとときは入籍前までにうっかり自殺しない可能性は五分五分だなぁとしみじみ考えていた。

 双極性障害の自殺率は極めて高い。20年後自殺率は6%、自傷率は3~4割と言われている。


 病相が混合状態にまで悪化した時の自殺率はおそらくあらゆる病気の中でも飛び抜けて高いのではないだろうか。
 
 僕も自殺願望が病気の症状の一つと理解していても、躁から鬱に転じる瞬間の、心の底から湧き上がる自殺衝動を抑えることは、本当に苦労した。精一杯だった。まさに命の危険にさらされる、文字どおり致命的な病だと思う。

 そして、混合状態での躁の時の散財は本当にどれだけ後悔しようとも、
いくらなんでもヤバいと思えど、辞められない。例えば仏教ではこれを煩悩に心が焼き尽くされる、などと表現される。古今東西あらゆる宗教では強欲や煩悩は戒めなければならないものと位置付けるが、僕は今回でそれを身を以て感じることができた。

 自分をコントロールできない苦しみというは、実はかなりのストレスだ。


 散財そのものが後悔と貧困によるストレスを呼び、そのストレスからさらなる散財に発展する。僕は、貯金のある双極性障害者って、この世にはいないのではないかと思っている。むしろ、散財癖のある人は是非ともこの病気を疑ってみるといい。

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【鬱と運転】オートバイに捧げた半生(。・ω・。)

ところで僕はオートバイが好きだ。

 中学生の頃はバイクを買うために新聞配達に勤しんでいた程である。
 高校に行くと校則的にバイクに乗れなくなることを恐れ、高専を目指した。高専の、何もかもフリーダムな雰囲気に憧れがあったのは事実だ。もちろん、理系なので好奇心的にもどうしても挑戦したかった。

だが言うまでもなく、一番の目的はバイクである。

 僕は中学3年の夏から受験勉強を始め、国立久留米高専機械工学部に合格する。
 ある意味エンジニアになったきっかけすら、バイクだ。

 16歳ですぐに免許を取り、それから16年間ずーっとバイクに乗っている。かれこれ30万キロメートル程度は走っただろうか。多趣味で飽きっぽいこの僕が、10年以上続けている趣味はこれだけだ。
 こんな僕でも鬱の時、全くバイクが楽しめなくなったことはある。2013年だ。

 バイクが楽しくないというのは我ながら相当にショックだったが僕はバイクを降りなかった。むしろ、逆に依存・執着した。

 鬱でほぼすべての好奇心を失い、体が動かなくなってしまった時、僕はもう、どうやって気分転換すれば良いのか分からなくなってしまい、すがりついてしまったのが、バイクだったのだ。

 バイクだけは少しワクワクできるような気がした。これはいわば僕にとって一筋の光。

 好奇心が無くなってしまう恐怖こそが鬱の頃の僕にとって最大のストレスだったと断言できる。僕は好奇心が無くなったら、どう生きればいいのか解らなかった。

そんな僕にとってバイクは生き延びる為の、最後の希望だった。

僕は生き延びるため、バイクを買い換えなければという妙な使命感に駆り出され、2013年7月にWR250Rというオフロードバイクを購入した。
この子は僕にとってはメンタル面では命の恩人であり、今でも相棒である。
この子がいなければ僕は死んでいたと思う。

 一方で車は売った。
 鬱と自律神経失調症で反射神経が無さすぎてこのままではいつか人を轢き殺すと思ったからだ。バイクなら死ぬことはあっても殺すことはないだろうという判断だった。

 それにバイクでの安全運転は慣れていた。
 実を言うと、免許取った直後、僕はバイクで事故を起こしている。その時かなり懲りてしまい、以来幸いにも僕は15年、無事故だった。かれこれ数十万キロ無事故を貫き通した慣れもあってか、バイクだとなんとか不安なく運転できた。

 だが鬱の時は車の運転はダメだった。車幅などの車両感覚すら危うい。クラッチもスムーズに繋げなくなった。運転そのものが恐怖だった。
 今では体調も戻り問題なく運転できる。だが未だに少しトラウマはある。車の運転を心の底から楽しむことはできない。

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【躁鬱病闘病記】僕にとっての最後の希望、瞑想


 話を戻すと、僕は休職中に4回ほど旅(バイクツーリング)に出ている。
 長野方面、山梨方面伊豆、富山県方面、福島方面だ。

 長野方面の旅行は天候や道に恵まれ、楽しかったような気がする。ちょっと記憶が曖昧だ。語りたいのだが語る思い出がない。ビーナスライン周辺はかなり綺麗だったような気がする。
 
 最高の天気の元、白樺湖の湖畔でおしゃれなランチを食べながらぼんやりしていた。多分まだ立ち直った状況ではなかったと思う。幾つかの景色を思い出すことはできるが連続したストーリーとしての記憶はない。

少し間を空けて山梨方面旅行。断片的だが少し記憶がある。

 僕は2つの課題を持って挑戦した。それは、無意識の拡張とながら瞑想だ。

僕はその頃、毎日朝っぱらの元気な時間帯に数時間は呼吸と瞑想の訓練をしていた。

 抗鬱剤や安定剤等、西洋医学の薬は効く。
 抜群に効く。

躁鬱病に立ち向かう際、なんだかんだで安定剤と睡眠導入剤は命綱となる。
 だが、所詮薬は対処療法だ。できればストレスを断つことで根本解決したい。
 そんな思いで僕は当時思いつくことを色々試していた。

 瞑想、呼吸、無意識の拡張、この3つは試した中では僕にとっては如実に効果的なアイテムだった。ストレス緩和はもちろんの事、心を入れ替えることができた。

 気分障害は遺伝的側面・環境因子もあるが、心の生活習慣病的な面もある、

と僕は考えている。

 心の生活習慣を見直すことで、気分障害を乗り越えられるのではないか、

と当時おぼろげに考えていた。今ではこれは確信に近い。

 考え方を変え、人生に対するスタンスを改めれば、ストレスは減り、気分障害は軽減すると信じている。ようは心の有り様だ。

 とはいえ、心を入れ替えるのは率直に言って難しい。僕は生活習慣見直しよりも俄然難しいと思っている。
 
 ましてや僕は精神障害者、普通の人よりも自分をコントロールできない人間だ。人生最大の難問だったと言っていい。しかも30歳超えた、いい大人である。子供ならまだしも、はたして大人の心の有り様を書き換えることができるのか?不安はあった。

 だが僕はやるしかなかった、当時僕は結婚が差し迫り、追い込まれていた。結果から言えば試行錯誤の後、僕は数ヶ月で自分を変えることができた。僕ですらだ。であれば多くの人々も正しく取り組めば心は入れ替えられ、人生はより豊かになる。

そして、心を入れ替える手段の一つが瞑想。

これが本書の主張であり、結論だ。

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【瞑想テクニック】無意識の拡張とは何か。

 まず最初は無意識の拡張から説明したい。

 そもそも無意識とはなんだろうか。まぁ正直なところ僕だってそんな問い掛けされてもよくわからない。話のスコープが散漫すぎる。

僕がフォーカスしているのは「無意識的にやれることの範囲」である。

 皆様は無意識的にやっていること、について自覚的になったことはあるだろうか。
 例えば、キーボードタイピングしかり、車の運転しかり、世の中には無意識的にやれてしまうことが数多くある。

 しかもそれらは往々にして訓練で後天的に獲得したスキルである。
 例えば誰だって最初は自動車教習所にて車の運転を覚えさせられる。きっと最初は頭で考えて操作していたはずだ。だがやがて体が運転を覚える。

 僕はそれを無意識の拡張と言っている。

 僕は鬱になった時、車が運転できなくなった。
 より具体的に言うと、無意識的にやれてたことができなくなったのだ。
 クラッチ&シフトワーク、カウンターステア、駐車時の車両感覚などなど、普通の人が無意識にできることが出来なくなった。

 16歳の頃からレーシングカートにハマり、大学の頃は全日本学生フォーミュラでドライバーまで務めたこの僕が、普通車で市街地走行すらできなくなったのだ。

 最初はなぜ運転できないのか解らず運転が怖くなった僕は車をすぐ売ってしまった。鬱で「無意識的にやれることの範囲」が狭まっていたことを理解したのはその後だ。
 
 ある日、ふと、気がついた。自分がこれまで無意識にやれていたことが、
 何もかもできなくなっていたことに。

 無意識でやれることが、鬱で狭まっているんだと、僕は結論付けた。

何日か考えて、僕はある考えを思いついた。

無意識にやれることは、訓練で拡張できる。

そして鬱は無意識にやれることが、なぜか狭まる。

であれば、無意識の拡張を意識して訓練すればもしかしたらメンタル的にも良いかもしれない

という3段論法だ。

 僕は無意識でやれることの範囲を、訓練して広げようと思った。
 まず最初は炊事、掃除、そしてバイクの運転を無意識でやる努力を始めた。
 ちなみに家事全般、特に整理整頓掃除というのは鬱病の時に最も苦痛を感じる行為の一つだ。だがその練習こそが僕にとっては気分障害から立ち直るための近道のような気がしていた。あくまでこれは直感だった。

 意識的に無意識を徹底する、というのは一点集中と雑念の排除である。

 要するに瞑想しながら作業をすることの、訓練だ。

瞑想的気分で一つのことに最高に集中しながら作業をしながらも何も考えず、できるかぎりのことを脊椎反射だけでやりきろうという努力である。もちろん、音楽を聴きながら作業をするなんてとんでもない。僕なんか当初はなかなか慣れることができず1日中、耳栓をつけていた。

 意識的な訓練によりある程度集中力が上がると、そのうち耳栓は不要になった。訓練が進んだ今ではテレビがついていようが妻が近くで料理をしていようが、ながら瞑想に入ることができる。もっと修行すれば雑踏の中ですらながら瞑想ができるようになるかもしれない。

次に取り組んだのは

生活の中からマルチタスクを徹底排除する事だった。

無意識の拡張に、より深く取り組むためである。

 瞑想的気分に到達するには、雑念の排除と一点集中が欠かせないのだ。


 以来、僕は何かをしながら音楽やテレビを見ないようにしている。仮に音楽を聴くときは徹底して音楽に集中する。彼女が話しかけてきたらその受け答えに集中する。ご飯を食べる時は噛むこと味わうことにだけ集中する。どうしてもやらなければいけないことが複数ある場合はとにかく時分割する。電車に乗ってる時などの暇な時間は呼吸の練習か、読書、もしくは瞑想をするよう、心がけた。スマートフォンは極力見ないよう心がけた。少なくとも暇つぶしとしてのネットサーフィンはやめた。

 僕は自分のすべての行動を、創造的な事と瞑想的にやれる単純作業、そして休憩の3つのカテゴリーに区分けし、単純作業は全て瞑想的気分で取り組むよう、心がけた。
 創造的な事や判断、決断は、心が疲れる作業だと達観し、7月の間は極力自重した。

 瞑想的単純作業の時は、どんな細かいことでも一つ一つ丁寧に、手切れよく、やり切るよう、意識した。いろいろ試したけど、7月の修行の中で効果的だったのはこんなところだ。他は徒労だった。

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【瞑想テクニック】「ながら瞑想」とは何か。ながら瞑想で生活を一変しよう!

 話を戻すと無意識的な作業であれば、瞑想と両立できる。

 無意識作業しながらの瞑想を僕はながら瞑想と名付けている。

「ながら瞑想」と「無意識の拡張」は言わば切り離しようのない、一対の概念だ。ながら瞑想は、座禅や姿勢を正してのいわゆる一般的に知られる普通の瞑想よりも、難易度が低い。初心者はながら瞑想から入った方が良いと思う。

 たとえ慣れない人がいきなり普通の瞑想を始めたとしても、初心者のうちは雑念で頭がいっぱいになって挫折するだけなのだ。なお、瞑想そのものについては後述する。

 ながら瞑想に取り組み始めて、効果が現れ始めたのは約1カ月後だった。
 死ぬほど苦手だった掃除片付けがいつの間にか全くのゼロストレスになった。
 むしろ、すべての無意識でできる作業は、何もかもが気分転換になった。
 掃除をすると心が洗われるという感覚を、ついに掴んだ。
 おかげで新居は今も小綺麗だ。引っ越す前はもちろんひどく荒れ果てていた。

 無意識にできることは家事に限らない。例えば、電気を消す、靴を履く、歩く、座る、そして何より呼吸。それらの行為に対して一つ一つ丁寧かつ何も考えず集中して取り組む訓練は僕の生活を180度変えたと言っていい。この取り組みで僕の日常生活におけるストレスは約半減した。

 その上、すべての作業が落ち着いて丁寧に、ほぼ完璧にできるようになった。創造的でないすべての単純作業が全く苦痛でなくなってしまったのだ。

 落ち着きがなく、興味ないこと、創造的でないこと、単純作業が嫌いだった僕にとってそれは実に革命的な出来事だった。この訓練はのちに、仕事で生きるようになる。事務仕事や単純作業の集中力が抜群に改善したのだ。

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【瞑想テクニック】瞑想ライディングへの挑戦٩( 'ω' )و

 さて旅の話だが無意識を研ぎ澄まし、雑念を拭い去ることを意識しながらバイクに乗ると最高に冴え渡った気分になることに、ある日僕は気がついた。

 とはいえ、無意識を研ぎ澄ますだなんて言うは易しだが、なかなか難しい。雑念なんていくらでも湧いてくるのだ。
 ただ後述するが当時瞑想にも取り組んでいて、雑念を払うコツは幾つか掴んでいた。
 だから腐ったメンタルでもある程度は無意識的にバイクに乗れた。
 僕は修行の旅に出ることを決意する。

 無意識の拡張の効果を試す旅、それが山梨旅行だ。


 それは、ライディングにどこまで集中できるか、
 雑念を排除することでどの程度疲れずにバイクに乗れるようになるかの確認だ。
 双極性障害混合状態の時の、あまりの落ち着きの無さで何もかもに過集中してはいきなり疲れ果てるというムラっ気が、どこまで落ち着いたかを確認したかったのだ。

 結果は大満足だった。
 
 落ち着いて、疲れずに、安全に、バイクに乗れた。
 ながら瞑想には歩きながら瞑想とか、お経通読しながらの瞑想とか、色々なやり方があるが、僕は遂に瞑想しながらライディングができるようになった。
 すると何年も楽しくなかったライディングが、楽しかった。

 1歩前へ進めた感触が、確かにあった。
 混合状態ではあったものの、だいぶ病相が好転したなと、僕は確信した。
 まさに正真正銘の自分探しの旅である。

とはいえ、これらに成功したのは僕が呼吸と瞑想の訓練をやったからこそである。

正直、瞑想は難しい。が、やる価値はある。
 やれるようになった今だからこそ言えるか、瞑想は素晴らしいものである。
 筋トレやランナーズハイとはまた違った、集中力のスイッチの入り方だ。

 後述するが、良い方向に人格を書き換えることだってできる。

 人格を書き換えられるくらいに、瞑想で心が柔軟になるのだ。


 僕の場合、瞑想の訓練は昔から、おそらく2013年に鬱になってすぐに始めた。
 鬱から立ち直りたくて、何冊か本を読んで、瞑想はなんだか良さそうな気がした。
 だがいろいろなやり方に挑戦したものの、最初の2年間、僕は瞑想に入れなかった。
 コレじゃない感と徒労感との戦いだ。
 少しづつしか上達せず、なかなか継続できない。

 上達とは何かというと、心を無にできるかどうか、だ。

 正直なところ、当時は瞑想に取り組んでも成果が出せず、しばらくは飽きて忘れていた。だが休職し始めてからはとりあえずやれることはすべてやろうと決意し、毎日瞑想の訓練をしていた。まさに藁をも掴む思いだった。だがそれもしばらくは徒労に終わる。あることに気がつくまでは。

あることとは、呼吸である。

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呼吸と瞑想と自律神経失調症の関係について

 前述のとおり、僕の休職のきっかけはストレスによる呼吸困難だった。
 だから休職期間中、自分がちゃんと息できているか、しょっちゅう気にしていた。呼吸を意識し始めて、僕は様々な気づきに遭遇する。

 例えば、僕の呼吸の良し悪しが日々違うことに気がついた。
 ちゃんと吸える時もあれば、吸えない時もあったし、
 吸えても吐けない日、あるいは吐けるけど吸える日など、
 実に様々なパターンがあった。

 そのうち呼吸を意識的に1時間くらい練習すると呼吸が上手くなる
 という不思議な感覚を、僕は掴む。

 練習で呼吸が上達する、ということは僕にとっては新鮮な驚きだった。

呼吸なんてそもそも練習するものだとは思ってもいなかったからだ。

 その後、僕は呼吸の練習に励み出す。
 これは後に自分の病気療養休職期間中のメンタル改善における、
 小さくも偉大な一歩となる。

 何をやれば呼吸が上手くなるのか、試行錯誤して幾つか分かったことがある。
  • 意識的な単なる深呼吸は、10分~30分は真剣に取り組まないと効果が薄い
  • ジョギングやサイクリングなどの有酸素運動後の深呼吸は短時間でも効果的
  • 呼吸とからだの動きを連動させると、実に効果的。ヨガは究極の呼吸練習だ。
  • 歩きながら、ジョギングしながらの深呼吸もヨガ同様に効果的だった。
 呼吸の練習は毎日、数時間は取り組んでいただろうか。
 そのおかげかどうかは断言できないが、

 僕の自律神経失調症の諸症状はそこから劇的に改善していく。

医学的統計的にどうなのかは正直の所わからない。だが僕にとって呼吸の練習は体調回復のキッカケであったと思っている。

 呼吸の練習はまた僕にさらなる気づきを与えた。大きくは3つだ。
  1. 呼吸の良し悪しと気分障害は相関関係にある
  2. 呼吸が深まれば、容易に瞑想に入れる
  3. 深く瞑想に入れた日は劇的に気分障害が軽くなる
 1でいうところの相関関係とは、ここでは関連性が強いということを表現している。

 ちゃんと息できている時は気分の具合がよく、そうでない時は何かしら躁だったり鬱だったり落ち着きがなかったりやる気がなかったりと、気分障害の症状が強く出ていたことに、僕は気がついたのだ。

 僕は理系なので相関があれば因果関係が気になってしまう。
 鶏が先か、卵が先か問題である。
 どっちが原因でどっちが結果が知りたくなったのだ。
 息ができるから気分が良いのか、気分が良いからちゃんと息ができるのか、それを見極めるべく、僕は切り分け作業に移った。

気分と呼吸の関係をつぶさに観察すること2週間
僕の中での結論はどちらも原因であり、いずれも結果だということだった。

気分が悪ければ呼吸は乱れるし、
呼吸が乱れることで気分が悪くなることもある。

そして呼吸を練習することで気分を改善することもどうやら可能である、

これが僕の見解だ。それは、呼吸にフォーカスした生活の始まりだった。

 呼吸の練習を始めて数日経つと、

 僕は呼吸の練習の後であれば容易に瞑想に入れることを体感した。

これが二つ目の気づきだ。僕は呼吸と瞑想の関係について再現実験をやり始めた。
 毎日呼吸の練習をしてから瞑想に取り組んだのである。呼吸さえきちんとした状態であれば瞑想に入れることを何度も繰り返し確かめた。逆に呼吸の練習を怠ると瞑想には入れない事も確認した。次第に僕の中での確信は深まっていく。

瞑想の鍵は呼吸だったのだ。

 瞑想に入れるというのは、雑念を排除して心を落ち着けて無になれるかどうかということだが、僕はこれまで何度も瞑想に挑戦し、失敗し続けていた。いつまでたっても失敗の原因は分からなかった。

 だが今なら分かる。きっと僕は呼吸が乱れていたことに気づいてなかったのだろう。
 坐禅や瞑想に挑戦する人は多い。だが誰しもが無の境地に入れるものではない。

 瞑想は難しい。

 これが世間一般の理解だろう。書店に行けば瞑想の本がたくさん置いてあり、いろんなコツが記述されている。
 
 だが多分瞑想に入れる人は極僅か。限られた人だけなのだ。

 今の僕ならその限られた人がどんな人なのか分かる。
 それはおそらくちゃんと呼吸ができている人なのではないだろうか。

 そもそも健常者ってきちんと呼吸できているのだろうか。
 例えばあなたはどうだろう。

 僕は今はそう思っていない。誰しもがきちんと息ができている訳でもなく、それはおそらく個人差があり、呼吸できている人とできていない人がいらっしゃるのではないかと思う。

 そしてこれは確信に近いが、
 たとえその人の呼吸がヘタクソだとしても、それを意識することは、おそらく無いのだろう。

みなさん、ちゃんと息してますか?


これは僕の主張だが、

「呼吸とは練習すべきものであり、上手、下手がある。」


という、新たな常識を提示したい。

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【呼吸と体調の関係】なぜ呼吸は大切か。

 呼吸は、自律神経の働きによって無意識的に自然にできるものでもある一方で、意識的・自律的にもやることができる。

だから僕は呼吸を練習すれば自律神経が良い方向に調整されるのだろうと感じている。

これは正直なところ自己の経験頼りの直感だが自信はある。

 なぜ呼吸が大切かについて僕の意見を説明する。

 他の各種身体活動と呼吸には決定的な違いがある。それは

 呼吸は自律神経にコントロールされている生理現象にもかかわらず意識的にもコントロールすることも可能

だという点だ。心拍や体温、血糖値などの各種バイタルは意識ではどうやってもコントロールできない。だが呼吸だけは意識でも無意識でも調整可能な、ある種、稀有な生理現象なのだ。であるからこそ、

呼吸の練習は自律神経に何らかの作用を及ぼすのだろう。

僕の経験・感覚では呼吸は体調に作用し、気分にも影響を与える。

だから呼吸は大切なのだ。これは僕の体を使って実験して確かめた。
 そして呼吸の巧さ加減は寝たらなぜだかリセットされる。だから毎朝の呼吸の練習が欠かせない。毎朝の練習により、ゆっくりだが確実に呼吸は上手くなっていく。

 これらを安直に一般化して良い考え方なのかはわからない。
 なにせ医学的・統計的エビデンスが正直言って無い。
 サンプルは今のところ僕だけだからだ。
 だが、僕はそう確信している。呼吸は大切だ。

 だからなんとなく気分が優れない人へのアドバイスは、
 とにかく深くゆっくりとした深呼吸だ。
 
 僕の経験では10回や20回程度の深呼吸では体感できるほどの効果はない。10分くらい継続的に取り組む必要がある。ストレッチや筋トレと組み合わせて身体の動きに同調した深呼吸に取り組めば5分くらいで体感できる程度の効果はあるだろう。

 ちなみに慣れないうちは全呼吸での深呼吸はまずできないと考えてよい。
 正しい呼吸は奥が深い。体調、姿勢、疲れも呼吸の乱れに大きな影響を及ぼす。
 腹式呼吸をある程度練習して、ようやく胸と腹両方を使った全呼吸ができるようになる。これも少し修行が必要だ。全呼吸を楽にこなせるようになって初めて正しい呼吸ができるようになる。

 正しい呼吸は意識的に練習すれば身につく。
 身につくとは、無意識にもできるようになるということだ。
 僕は無意識での呼吸を胸呼吸から全呼吸へ変化させるのに2ヶ月を要した。

 その間、呼吸だけでなく胸を張った正しい姿勢にするための訓練も並行して実施している。

 無意識での正しい呼吸には正しい姿勢が欠かせない。

僕は日常生活における姿勢にも細心の注意を払うようになった。正しい姿勢を身につけるのは正直言ってかなり苦労した。長年染み付いた猫背が僕の呼吸の邪魔をしている気がして、姿勢改善に取り組んだのだが、効果が現れるまで3ヶ月程を要している。

 最初は五里霧中・無我夢中だ。そもそも何が正しい姿勢なのか
 ということを掴むのが難しかった。僕は瞑想しながら正しい姿勢を探った。

 瞑想は考え事をやってはダメだが五感を駆使するのは寧ろ推奨されることである。「考えるんじゃない、感じろ!!」ということだ。

僕は瞑想しながら全身の筋肉の緊張状態をつぶさに観察・意識しながら
筋肉の緊張を少しづつ解いていくよう、頑張った。
この感覚をテキストで説明するのはちょっと難しい。

 ただ、少なくともこの取り組みで僕は整体・マッサージ屋通いの習慣は無くなった。
 劇的に体が軽くなったのだ。体感的には10歳くらい若返った気持ちだ。

 道教の世界で仙人になろうという人々が呼吸や瞑想の練習をする理由が、僕にはよく分かる。確かに体が軽やかでとてつもなく健やかな状態になれるのだ。
 この感覚は確かに不老長寿を得た気分になれるかもしれない。もちろん僕は瞑想やったからといって不老不死になれるとは思っていないが。

 呼吸の練習は深くゆっくりとした深呼吸を続けるだけでも良い。
 まずは100回くらい深呼吸すれば、何かしら変化はあるだろう。
 ただしこれはそれなりにめんどくさい。
 最初はたかが深呼吸如きにどれだけの意味があるのかどうか?という疑念もあるだろうし、さぞや億劫だと思う。こればかりは騙されたと思ってやってみるしかない。

 もしあなたが幸いにも?100回程度の深呼吸で気分の落ち着きや体調の変化を感じることができたのであれば、それはこれまでロクな呼吸ができていなかったことの証左でもある。であれば是非とも呼吸の練習に取り組んでみてほしい。

 まずは腹式呼吸の練習、次に全呼吸、それがある程度身についたらヨガを始めると良いだろう。もしくはとりあえずヨガから始めても良いかもしれない。ヨガが目指すところは変なポーズと思われがちだが、僕はそうは思っていない。僕は逆にトリッキーなポーズでもちゃんと全呼吸できるようになるための練習と思っている。

 また、呼吸の為に姿勢を正す手段としてもヨガは良い。何よりヨガは呼吸と動きの連動が肝だ。呼吸と身体の動きを同調させての深呼吸はただの深呼吸と比べれば圧倒的に効率が良い。すぐに体がスッキリする。

 一方で横隔膜を積極的に使って呼吸する感覚を掴むまでは慣れない人であれば数日を要することだろう。僕の場合も最初は苦労した。自律神経失調症が酷かった時なんて、どう頑張っても横隔膜を積極的に使った呼吸はできなかった。ひたすらお腹を使って呼吸して、少しづつ強張って硬くなった横隔膜を柔らかくしていくような心構えで、練習を続けるしかなかった。呼吸の練習をする際に、雑念を払って意識を全て呼吸に向けることができれば、それはまさに瞑想そのものとなる。

呼吸が上達する感覚というのは説明が難しいが、
気分や体調に少しでも変化が現れたら、それは良いサインだ。
すかさず瞑想の練習に移ることをお勧めする。

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【瞑想のデメリット】瞑想をやってはいけない人、オススメしたい人の特徴

 さて、本題の瞑想について目的、概要、手段、ノウハウの順に説明する。

 本書で繰り返し絶賛している瞑想について、最初はデメリットからお話したい。

 瞑想は誰にでもオススメできるものではない。

 重い鬱病の方はそもそも瞑想に取り組む気力は無いだろうし、良い方向にメンタルが変化するとも限らない。正直なところ難易度は高いと思う。

 統合失調症を患っているのであれば、妄想・幻覚が加速する恐れもあるので絶対にやらない方が良い。そういう人がやってしまうと、宇宙と交信し始めたりしてしまう。

 自己が確立していない人がやるのもおそらく徒労に終わる。
 ゴールなしに瞑想に取り組んだところで迷走してしまうだけだ。
 子供は手を出さない方が良いだろう。

 瞑想をオススメしたい人は以下のような人物像で、
 いずれにせよ目的意識やゴールが明確であることが必須である。
  • 自らの煩悩を戒めたい人。ギャンブルや散財など、
    セルフコントロールが下手で苦労している人。
  • 落ち着いて冴え渡る頭脳を得たい人。仕事の効率を改善したい人
  • だらしない自分を変えたい、そしてそのイメージが固まっている人
  • 躁鬱病やADHDなど、心の落ち着きがなくなる病気を患っているが
    安定剤などを服用してなんとか瞑想できる程度には寛解状態にあり、
    病気を克服したいという強い意思を持つ人。
  • 硬直した心を解して、自分の心を入れ変えたい人
  • とにかく集中力を上げたい人
  • 休憩が上手になりたい人
 上記に当てはまる人には是非ともオススメしたい。
 きっと良いことがあるだろう。

 重い鬱病の方には心の休憩のテクニックの一つとして瞑想をオススメしたい気持ちもあるが、瞑想そのもののめんどくさや瞑想に挫折した時のストレスが無視できないので、医師と相談の元に進めた方が安心だろう。(ただ、西洋医学系の医者が瞑想に対して理解があるとは思えないが。。。)

 ADHDや躁鬱病など、病的に落ち着きの無い人には
 そもそも落ち着いて座るなんて何よりも難しい行為であるため、
 安定剤でも何でもいいから少し落ち着いた状態を作って取り組むべきだ。

 なお僕は睡眠薬やアルコールを僅かでも服用した後だと瞑想には一切入れない。

深酒したら翌日も瞑想に入ることはできない。仏教の戒律で酒が戒められている理由は、僕にはよく分かる。確かに修行の邪魔だ。
 また僕の場合の話だが瞑想と喫煙は一切関係ないようだ。

 目的は無いが好奇心で瞑想を始める場合はせっかくなので仏教の各種戒律やモーゼの十戒くらいは意識しながら瞑想を始めた方がいろいろと捗るだろう。せっかく瞑想を始めるのであれば、より良い方向に人生を書き換えた方が良い。

 瞑想は手段にすぎない。
 目的がはっきりしていないと、ゴールにはたどり着けない。
 もし自分の中でゴールが定まっていなければ代表的な宗教の戒律を参考にするのは良い手だと思う。

 例えば僕は原始仏教の八正道を意識している。代表的な宗教の戒律なんてどれも本質のところでは似たり寄ったりなので、信仰が無いなら好きな宗教の戒律を選べば良いだろう。なんなら手段と目的が入れ替わってしまうが曹洞宗の「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)でもよい。

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【瞑想のメリット】 瞑想とは脳の休憩である。

次は瞑想について、その偉大なメリットを改めて説明する。
  • 脳みその究極の休憩、それが瞑想である。
    夢を見ながら浅く寝るよりもよほど脳が休まる。
  • 綺麗にハマると頭脳と五感が冴えわたり、最高の集中力が得られる。
  • 心が落ち着く。衝動的な欲求が消え去る
  • 執着心、煩悩、強欲がなぜか消え去り、好奇心だけが残る。
大まかに言ってこの4点がメリットだ。

2~4の3つのメリットに到達することを一般的には悟りを開くと言われている。

悟りは覚悟、開悟あるいは解脱ともいう。悟りを開くのはそれなりに努力と時間が必要だ。

 ガウタマ・シッダールタ、いわゆるお釈迦様ですら、
 悟りを開くには菩提樹の下で49日を要したと言われている。
 僕の場合は7月に瞑想を本格的に始めて毎日数時間は集中して修行し、
 8月下旬に突然悟りが開けたので、だいたいお釈迦様程度の時間を要している。

 もちろん天才ブッダ様が見た境地と同じ地平に立てたとは思ってはいない。

 僕の悟りとの出会いは突然だった。

 瞑想中にある日突然、無我・無欲・無双な感覚に包まれるのだ。

 あの優しい幸福感は、
 躁で得られる落ち着きのない全能感・多幸感とは全く違うものだ。

 その日以来、僕の散財は止まった。
 すべての物欲が無くなり、食欲や性欲も落ち着き、バイクへの執着すら突然消えた。
 僕の中に残されたものは好奇心と集中力だけになった。
 突然、自己管理能力も高くなり、自分をコントロールできるようになった。
 毎晩の晩酌も無くなった。

 欲がないなんて人生楽しくなさそうだと思われてしまうかもしれないが、
 そんなことはない。

 究極の開放感に包まれ、気分は常に晴れ晴れし、
 むしろ、自分をちゃんと管理できる感覚は最高に心地よいものだ。

 好奇心はむしろ上がったので、読書や創造的なことが楽しくて仕方なくなってしまった。

 クリエイティブになってしまうのである。

 スティーブジョブズやビルゲイツが瞑想にハマる気持ちも良く分かる。

 今、こうして執筆活動ができる理由も、瞑想をちゃんとやっているからだ。昔はこんなこと落ち着いて取り組めなかった。

 そしてなにより、優しくなった。
 人を恨んだり妬んだりという感覚も忽然と消えたのだ。
 謎の感謝の気持ちが湧いてきて、僕は話し方すら変わった。
 自己顕示欲や承認欲求も消えた。


 ただ、双極性障害そのものは治らず、不治の病であることは変わらない。
 気分の過度な上がり下がりや過集中してしまう癖は瞑想で少し落ち着くものの、
 完全には消えなかった。ただ、自分の管理はすごく楽になった。
 ヨガと瞑想を生活のルーチンワークとすることで、
 自分の人格を寛解~軽躁の間で固定できるようになった。

 ところで、悟りや解脱というと、怪しい香りがプンプンする。
 超能力や超自然的な力が宿るというイメージもあるかもしれない。
 だが僕はここで断じて否定しておく。

瞑想は空中浮揚やテレパシーなどの超自然的超能力を習得する技術ではない、

結局のところはただ単に、いい感じに心が落ち着くだけだ。

 瞑想で超能力や超自然的能力が得られたような気がした人は
 残念だがまず、統合失調症を疑ったほうが良い。
 その場合、危険なので瞑想は今すぐにでも中断すべきだ。 

 瞑想によって得られる心や体の変化はゆっくりとしている。
 上がったり下がったりを繰り返しながらも少しづつ心が良い方向に書き換わっていく。
 僕のように短期間で突然悟りが開けるというのはレアケースだろう。

 僕はカリカリの精神障害者で脳内麻薬の調整がガバガバだから、短期間で悟りの境地に達することができたと考えている。それに、僕は休職期間中だったし、結婚前に自分を変えないとという使命感もあったので毎日何時間も必死に各種修行を行うことができた。まとまった時間を使って集中して鍛錬できたのは幸運だった。
普通の人が仕事をしながら細切れの時間で瞑想に取り組んだとして、どの程度の境地に到達できるのか、僕にはわからない。

以上が瞑想の目的、メリット・デメリット、だ。

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【瞑想入門・概要説明】要するに瞑想とは何か。

 概要の説明に入るが、簡潔に記述する。

 瞑想とは思考をストップする技術だ。目指すは無我の境地。

 概要は以上である。

 シンプル極まりない。だがそれが難しい。
 だから後述するノウハウやテクニックが重要となってくる。

 瞑想の技術を持っているだけでどんなに辛いことがあろうとも、嫌なことがあろうとも、悩み事や考え事を強制的に遮断していつでも落ち着いた、精神的に楽な状況を作り出すことができる。
 
 自在に瞑想に入れるようになればストレス性の不眠症は、これでほぼ無くなると思っていい。悩み事が悩みだという人にはこれ以上ない良い薬となるだろう。

 さて概要の説明は簡単だったが、次は手段とノウハウの話だ。

 あなたがこの本にライフハックを求めているのであれば、きっと一番重要なところだ。


 思考を止めるのは容易ではない。
 僕だってノウハウなしには不可能だ。
 完全な無には僕も到達できない。
 修行が足りないのだろう。

 ベーシックな手段としては呼吸の数を数えるのがオススメだ。
 リラックスした姿勢で座り、意識的に呼吸をして、呼吸の数を数える。
 呼吸は無意識ではなく、意識的にやる。自らの意思で、吸って、吐く。
 
 慣れないうちの長時間の意識的呼吸は苦しい。
 呼吸の総量を上手に調整できず、過呼吸や酸欠になったりする。
 自律神経に任せて無意識的に呼吸をすれば苦しくもなんともないのに意識的呼吸だと苦しいと思う人は、瞑想を棚上げにして、まずは呼吸の練習を先にやったほうが良い。深呼吸、特に横隔膜の動きに神経を集中させた複式呼吸の練習をして、意識的呼吸が全く苦しくない状態にしなければ、瞑想には入れない。

 呼吸は、深くゆっくりやる。呼吸の深さとゆっくり具合はいろいろ試してほしい。深すぎると過呼吸になるし、ゆっくり過ぎると酸欠になる。心地よい適度な具合を目指してほしい。

 お釈迦様の教えにも中道という概念がある。
 苦行で悟りは開けないという考え方だ。
 体や心が疲れ過ぎていたら瞑想は入れない。
 やるなら朝がオススメだ。

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【瞑想テクニック】瞑想の極意。心を滅するコツ

 意識的な呼吸がストレスフリーにできるようになったら次のステップに進む。
 
 瞑想の肝、「思考を止める」である。

 これは、ものすごく難しい。ついつい考え事が浮かんでしまう。
 そこで大事になってくるコツこそが、前述した呼吸の数を数える方法だ。

「考えるな」と教える一方で「数を数えろ」というのははっきり言って矛盾しているが、考え事をやってしまうより数でも数えた方が瞑想的にはマシなのだ。
 数を数える程度であれば僅かに意識的ながらも瞑想的な気分を維持したままで少し気を紛らすことができるというわけだ。

 とにかく呼吸を意識的にやって、呼吸を数える。
 これが一番ベーシックな瞑想のやり方だ。
 まずは10呼吸だけでいい。慣れてくれば20呼吸くらい思考を止めることができるようになるだろう。

 ここで瞑想が上達するということは、
 思考を止められる呼吸の数が増えていくことである。
 無我を維持したまま何回呼吸できるか、日々試してみると良い。少しづつその数は増えて行くはずだ。そして目標とする回数をコンスタントにこなせるようになってくると少しづつ心が良い方向に変わっていくことを感じることができるようになるだろう。

 目標とすべき呼吸の回数だが、何らか心や体に変化を生み出す程度であればまずは5分程度を目指せば良いと思う。

 例えば僕は毎回108回呼吸で瞑想をやっている。
 頭を休憩させる時間として、また気分を入れ替えるのにも適切な長さだと思う。
 長すぎてもやはり辛い。
 なぜ108回という中途半端な数字かというと、
 仏教で言うところの煩悩の数だから、僕はなんとなく108回を目標としている。

 ところで、究極の瞑想とはおそらく
 意識的に呼吸するだけで、心を完全に静止し、
 呼吸を数えることすらいけないのだとおもう。

 例えば上座部仏教が盛んな東南アジアで出家後に座禅を組む際は、呼吸を数えてはいないだろう。仏教の禅宗一般、例えば曹洞宗の座禅も呼吸以外は許されないのではないだろうか。
 でもこれらは達人にならないと不可能な境地だ。
 僕も我流の素人なのでせめて呼吸でも数えていないと、なんだかんだで雑念が湧いてしまう。
 
 前述したが初心者は心の落ち着きが足りないので、ながら瞑想しかできないのだ。
 だから私はここで「呼吸数えながら瞑想」をお勧めしたい。

 もちろん、ほぼ無意識的にやれることがあるのなら、それとの組み合わせはいずれも「ながら瞑想」となりうる。
 もしあなたが呼吸数えながら瞑想に挫折した時は気分の落ち着きが足らない可能性があるので、もう少し具体的な、より気を紛らわすことができそうな無意識行動で、ながら瞑想にチャレンジすると良いだろう。

 ながら瞑想はいろいろあると思うが、例えば
  • 歩きながら瞑想
  • お経通読しながら瞑想
  • サイクリングしながら瞑想
  • ジョギングしながら瞑想
  • 仕事しながら瞑想
 僕が思いつくのはこんなところだが、他にも無意識的にやれることがあれば、是非とも瞑想と組み合わせてほしい。純粋な瞑想よりは簡単だ。

 歩行禅、要するに歩きながら瞑想が一番簡単だと思う。
 歩調と呼吸をシンクロして、ついでに歩数&呼吸の数を数えるのが歩行禅だ。

 むしろ日々の生活を瞑想的な生活に切り替えてほしい。
 雑念さえ湧いてこなければ、それがなんであれ立派な瞑想と成り得る。
 歩きながら瞑想は僕も日常的にやっている。
 むしろ、僕はすべての移動を瞑想的にやろうと努力している。
 僕にとっては移動こそは修行の時間だ。
 心を落ち着け、すべての思考を止め、呼吸の数を数えたり、歩数を数えたりしている。

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【瞑想テクニック】瞑想と祈りの関係。呪文唱えながら瞑想


 お経通読しながら瞑想は敷居高い。
 だがなかなかに良い。

 一心不乱に意味不明な呪文を唱えるのは立派な瞑想だ。

 小説やドラマのセリフなど、平易な文章の音読はオススメしない。
 意味がわかるからついつい読んで頭に入ってしまい、思考をストップするとはかけ離れた状態になる。

 各種宗教で祈りを捧げる際に呪文(意味不明あるいは難解ということ)を読む理由は心を滅するためのテクニックなのだと私は考えている。


 呪文音読による瞑想は、その呪文が自分の脳みそにとって意味不明なことが重要なので、呪文は正直何でもいい。
 もちろん自分の信仰に沿った呪文が良いが、無宗教であれば特に拘ることはないだろう。
 
 幸いにもあなたが外国語を知らないのであればヘブライ語の旧約聖書やアラビア語のコーランなどは意味不明感的には素晴らしい。それにもしかしたらご利益の一つもあるかもしれない。教養にもなりうる。
 
 仏教徒ならばマントラ(真言)ダラーニなどの
 サンスクリット語由来の呪文がいいだろう。
 漢文で書かれたお経でも構わない。
 さすがに南無釈迦牟尼仏とか南無阿弥陀仏だと短すぎて
 数百回も唱えることになるのでキツいかもしれない。
 

 自分にとって適切な長さかつ意味不明な文を一心不乱に読んでほしい。

1つだけ注意点がある。呼吸への意識は途切らせてはダメだ。
 意識的全呼吸で音読しないと瞑想としての意味が無い。
 これらは実に心が落ち着く。
 雑念排除のテクニックとしてこれほど有効な手段は他にない。
 
 欠点は周りから見たらキチガイにしか見えない点だ。
 特に無宗教な雰囲気漂うこの日本においては浮く。
 ぜひ隠れてやってほしい。

 例えば僕なんかは休職期間中、般若心経(般若波羅蜜多心経)を毎日20回くらいは通読した。最初は読みながらだったが2ヶ月もすると完全丸暗記して無意識的に口遊めるようになった。この境地まで来るとかなり瞑想が楽になる。何も考えずに般若心経を唱えれば、それだけで思考をストップできるのだ。

 今日は落ち着きがなくて呼吸や歩数を数えるだけでは心を止められないな、、
と思う時は、僕は般若心経を口遊む。すると不思議と思考がストップする。
7回唱えれば瞑想1インターバルといった感じだ。

 ちなみに何故僕が般若心経を瞑想時の呪文として選んでいるかというと、
 知人からオススメされたということもあるが、
 般若心経の教えの根幹が

「無我こそが究極の智慧で、全ては無であり、無こそは全てである」

という、瞑想の思想に沿ったものであったことが大きい。
 短いお経なので日々の瞑想で使うにはとても便利だ。
 幾つかの例外はあるものの神前・仏前・各宗派で分け隔てなく唱えて良い、非常に使い道の広いお経なので、般若心経は一種の教養としても悪くない。
 ちなみに僕は般若心経の教えがとても好きだ。

 瞑想の手段として僕の中ではなくてはならないものだが、
 人生のバイブルと言ってもいい。
 宗教の勉強にはまった時に色々調べたが、般若心経の教えが僕の中ではしっくりきた。

 ちゃんと宗教を信仰人たちは、日々の生活に祈るという行為が入ってくる

「祈り」は正しくやればそれも立派な瞑想だ。

それがいかなる宗教であれ、
敬虔で信仰心の厚い人たちというものは一般的には心が穏やかかつ健やかだ。(例外はもちろんある)
その理由の一つは、祈りにあると僕は考えている。

祈りは心を落ち着ける。
僕も毎日神棚に祈りを捧げている。

 コツとして、何かしらの崇拝対象に祈りを捧げる際、ついでに瞑想したかったら現世利益的なご利益を求めてはいけない。
 例えば幸せになりますようにとか、子宝に恵まれますように、などの具体的な願いは無欲・無我な瞑想的気分から遠のいてしまう。

 信仰する神への感謝の気持ちだけを抱き、具体的なことは考えず、ただ謙虚な気持ちで一心不乱に祈ればそれは瞑想の一つだ。

 要約すると、瞑想は意識と心を止めるテクニックだが、心を滅するのは現代人にとってとても難しいことなので、比較的無意識的にやれることであれば、気を紛らわすために適度やっても良いということを伝えたかった。

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【瞑想テクニック】瞑想における姿勢の重要性について

あとは姿勢の問題だ。

まずは楽な姿勢で取り組んでほしい。あぐらが一番だと思う。
全身の筋肉を弛緩させつつも背筋を張るという、
これまた一見矛盾した行為に取り組んでほしい。

体と心は密接に関係している。体をリラックスさせることはとても重要だ。

 これについてどう取り組めば良いのかわからない場合はヨガ教室に通ったほうが良い。僕はヨガについては我流なので、具体的な言及は避ける。他にも良著はあるだろう。ただ、ヨガは良いとだけ伝えておく。

 姿勢についてあと一つだけアドバイスがある。印を組むべきだ。

 古今東西、あらゆる宗教で祈りを捧げる際、
 手を合わせたり手を組んだりすることは皆さんもご存知だろう。
 こういった行為を、例えば密教(仏教とヒンズー教の習合で生まれた宗教)では「印を組む」と言う。
 日本の密教では最澄の天台宗や空海の真言宗が有名だ。
密教で即身成仏(ある種の悟り)を目指す際
基本中の基本に据えている教えが「三密」だ。三密とは
  1. 手に印を結び、
  2. 口に真言(マントラ:呪文)を唱え、(要するに呪文唱えながら瞑想)
  3. 心に曼荼羅(マンダラ:仏の姿が描かれたもの)を思い描く、(一点集中)
というものだ。僕はこれは瞑想に入る所作そのものだと思っている。

印を組むとなぜか瞑想が深まる。
理由はわからない。

だが僕の経験上は有効だ。
僕の場合、好みの印相は合掌か法界定印(ほっかいじょういん)だ。
合掌は皆さんご存知の通り、手のひらを合わせる印相だ。
各宗教で形は違えど何かしら印を組む理由はなぜか瞑想的気分に到達しやすいからだろう。

以上が、僕が闘病生活で学んだ無意識の拡張、呼吸、瞑想だ。


さて以上がこのティザーサイトで読める無料版である。
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闘病中の悟り体験から社会復帰までの道のりや
瞑想と宗教の関係性、瞑想を仕事にどう生かすかなどを記述します。